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最近無差別な通り魔事件がたびたびニュースに取り上げられる。
池田小学校事件もまだ記憶に新しいのに、土浦市では2度も事件が発生している。
このところどんどん増えているのか?・・・。いや、増えているように報道が過激なのだろうか?



人は生まれながらにして、思いやりがなかったりするわけでもないはずなのに・・・
時間に追われる生活が当たり前になってきて、例えば人にぶつかっても謝ろうとせず通り過ぎていく。
世の中のスピードがあまりにも早すぎて、無礼な態度や配慮の無さが日常茶飯事になってはいないだろうか?
テレビやインターネットなどメディアから居ながらにして都会の、いや世界中の情報を瞬時に教えてくれる現代。

テレビが村に1〜2台しか無かった頃、遊びも自分たちで考えながら、自動車が少なかったから道路で平気に遊べた。
玄関や雨戸に鍵を掛ける人もなく、夏になれば開け放して「蚊帳」で眠ることが出来た時代。
その頃の空は澄み、川もきれいで裸足で小魚や貝を捕ることが出来た。
そんな時代を「退屈だったでしょう・・」と、いま時の人たちは言う。

しかし全く逆で、思いやりや痛みの分かる暮らしがそこにはあった。
今のような便利さはなかったが、美しさと知恵・心に豊かさがあったことを私は知っています。

限られた時間の中で、たくさんのモノ(情報など)を詰め込もうとする現代ですが、ハイテク技術の進歩やインターネットの普及などにより、家でも仕事中でもまるで洪水のように流れてくる情報を詰め込まなければなりません。
携帯電話が通じなければ不安で仕方がない。会話の表現をメールでしか伝えられない。
そのように、スピードアップした現代の大きな弊害が『集中力の無さ』
もっとゆっくりと、そんなに詰め込まなくてスローダウンしても・・いやスローダウンするべきではないだろうか?と考える。

普通に学校生活を過ごし、普通の職場に勤務して、ごく普通の生活をしていたと思われる人間がある日突然・・
学友も、職場の同僚も目だった・変わった動きはなかったと口をそろえる。
彼は、ある日突然凶暴な事件の犯罪者になってしまった。

決して、情報量の多さが豊かさの大きさと等しくはならないのだが。。
親の期待に応えるため。職場から見放されたような気がする・・。彼女が出来ない。。などと。
親の言いなりに育ってきたこと、被害妄想的な発想、まるで他人事のような、自分が被害者であるかのような供述。

生活が忙しくなると、人間関係が薄くなります。人間関係を保つには時間がかかります。
家庭が忙しくなると食事も一緒に摂ることが少なくなります。家族団らんの機会が少なくなると家族との絆も薄くなってきます。

私も経験がありますが・・・
子供は何でも不思議がります。子供からの質問は、質問する表現にも時間がかかります。(特に忙しいときに際だって・・)
私は新聞やTVを見ながら、子供の質問に「うんうん、なるほど・・」などと生半可な返事をしたことがあります。
反面、子供が自分の言うことを聞かないといらだちを覚えます。
親がマジメに子供の意見を聞いてあげなかったから、子供も自分の言うことを聞かなくなったのでは?と最近になって思います。


心は、訓練されないと自分勝手な道を歩き続けます。そして、さまよい続けます。
犯罪者の彼の供述のように、彼もまたスピード病を産み出した『現代病』の被害者なのかも。。。

速く働く心は病んでいる。
ゆっくり働く心は健全である。
不動の心は神聖である。
(回教の汎神論神秘主義者メヘル・ババの言葉より)
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